高鉢山~呉娑々宇山 3/28(係)多賀谷 -不法投棄に関する一考察-


三谷 和臣

<参加者>横山、山本(文)、福永、平井、三谷
 恒例の狩留家の高鉢山から馬木の呉娑々宇山を歩く例会山行において、谷を埋め尽くす大量のゴミを目の当たりにした。都市部周辺の裏山に限らず、特に珍しいことではありません。登山者の立場からすると、「美しい」景観が損なわれているという印象を抱き、投棄者に対して、「嘆かわしい」という倫理面での指摘もあると思います。
 登山者の権利を主張する前に、果たして、不法投棄する側のみの問題として扱えばよいのでしょうか?あるいは、対策を講じない行政の問題なのでしょうか?監視システムは、その場しのぎの方法で根本的な解決にはなっていません。
 ミクロなとらえ方をすると、その一面もあるかもしれません。もっとマクロ的にとらえるどうなるでしょうか?広島市あるいは日本さらには地球を箱庭として考えた場合、廃棄物は消えて無くなるわけではなく、地球のどこかに蓄積されることになります(エントロピーの理論です)。鉄くず、プラスチックなどの形のある物から、CO2、NOX、ダイオキシン、フロンなどの目に見えない物まで。日本(あるいは世界)の経済システムは廃棄物は出ない経済として成り立っていました。すなわち、廃棄物を処理するための費用は考えていないことになります。また、家庭ゴミを出す市民の負担は考えられていませんでした。
 日常生活では、商品を買うのはお金がいり、捨てるのは「タダ」(厳密に言えば税金)が常識になっています。すなわち、廃棄物に対する「適正」な値段が付けられていませんでした。リサイクル法は、消費者が廃棄物の処理コストを負担する一つの試みですが、消費者はリサイクルの意義を余り理解できていないと思います。リサイクルビジネスや粗大ゴミなどに対して「妥当」な値段を付けるなどの政策は徐々に広まりつつあります。ゴミを処理するのは大変な仕事ですから必然的な流れといえます。ゴミを燃やしたり埋めたりと言った従来の方法では、大気汚染、土壌汚染に繋がるので、マスコミも手伝って世論は厳しくなりました。国民は自らの大量廃棄を棚に上げ、公害防止に対する権利のみを主張します。処理業者は、環境負荷を低減しようとすると、コストはかさむ一方です。「適正な価格」を付けると、「適正な消費」(適正な消費量やゴミを減らしリサイクルに協力する)に繋がると良いですが、企業や市民の理解を得るのは困難です。不法投棄を加速しかねません。
 産業革命から70年代に至る技術至上主義の公害問題は解消されてきましたが、新たにコンビニ、ファーストフードに象徴される飽食の文化、資源の浪費、家電、パソコンの過剰な供給(価格破壊、商品の短期サイクル)の問題も出てきています。しかし、不思議にも日本は世界有数の(経済的に)豊かな国でありながら、食糧自給率30%、エネルギー資源自給率10%の貧しい国です。ゴミは増える一方で、ゴミ処理能力は限界に近づいています。何れは、生産するための資源も枯渇するため、ゴミのことは考える必要は無いかもしれません。楽観的に考えれば、自然と人間が共生する理想的な循環型社会が形成され、そうでなければ人類の絶滅になるかもしれません。大量に消費して、大量に廃棄する我々のライフスタイルを見直す時期は既に来ているのでしょう。従って、不法投棄の問題は、消費者、生産者を取り巻く様々な社会問題としてとらえることができます。
 現在、生物・化学・薬学・物理などの最先端技術の常識が覆り、各々の分野のみでは解決できない世の中になっています。谷を埋め尽くすゴミは自分自身の生活(将来)を鏡で映されているような思いがします。
 本一考察は、一冊の本を読んでの感想でしかありませんが、一人一人が意識改革しないと解決困難な問題でしょう。
<参考文献>
倉阪秀史「エコロジカルな経済学」(ちくま新書)2003

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