Aqtash


広島山岳会

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Aqtash 日印合同・広島山岳会ヒマラヤ登山隊1993

日本隊
総隊長        田内 實
隊 長        名越 實
隊 員        吉岡 好英
岡本 良治
横山 正雄
山本 宣夫
溝手 康史
インド隊
ITBP(インド・チベット・ボーダー・ポリス)チーム
隊 長        Hukam Singh
ドクター       A.C.P.Tripathi
登攀リーダー     Prem Singh
P.T.Sherpa
隊 員        Mohan Singh
Kehem Raji
Sange Sherpa
Wangchuk Sherpa
Hira Ram
Kashmir Singh
Mangal Singh
Sardar Singh

日印合同・広島山岳会ヒマラヤ登山隊1993のエクスぺペディションの概要

<6月28日>香港が台風のため1日遅れて大阪発・・・デリー着。

<6月29日>隊荷通関

<6月30日>ITBP(インド・チベット・ボーダー・ポリス)長官(DG)に挨拶。サルトロからアクタシに変更決定。カラコルム峠への踏査は許可。

<7月1日>ITBP会議室にて日印合同隊団結式。日本大使館より神長公使出席。テレビ新聞は、アクタシ登山とカラコルムの件を一斉報道。

<7月2日>日本大使館へ挨拶(山田大使未着任)

<7月4日>デリー発~ブラスプール着

<7月5日>ブラスプール発~マナリ着

<7月6日>マナリ発、ここから大ヒマラヤ山脈を越え、ロータン峠(3955m)~バラナチャ峠(4891m)~サルチュー(ITBP駐屯地)着

<7月7日>サルチュー発~ラチョン峠(5065m)~タクラン峠(5363m)~インダス川~レー着(3500m)百年来なかった長雨(7月9日から4日続いた)で泥の家屋が崩れたり、寺院などの文化財に被害が出た。マナリとレー、スリナガルとレー双方の道路が崩壊。雨雲で飛行機も欠航し、レーは14日まで孤立。

<7月15日>レー発、いよいよラダーク山脈を越えて禁断の東部カラコルムへ入る。レー~カルドゥン峠(5607m)~シャイヨーク川~ヌブラ谷~サソマ着(3300m)。

<7月17日>サソマ発~チャングルンラスケール峠(4450m)~スキャンボチェの軍キャンプ着(4170m)。
この道は1907年日野 強、1909年大谷探検隊が通った中央アジア交易ルート(シルクロード)でカラコルム峠を越えてカシュガルへと続いている。今これにも車道を建設中。

<7月18日>スキャンポチェ発~ヤンバー氷河左岸モレーン末端にBCを決定。(4800m)

<7月21日>登山開始。ヤンバー氷河左岸のサイドモレーンを登り、氷河本流に下り、クレバスもないダラーとした雪面を詰めて源頭にいたる。ここにC1を建設(5600m)。協議の結果日印別々のルートを採ることに決定。インド側の要望によりC1までのポーターを5人雇用。
ITBP本部より無線入電あり。デリーでの報道に中国とパキスタンよりクレームがつき、カラコルム峠への踏査は不可能となる。

<7月24日>C1より南壁大クーロアールにルート工作開始(5900m)<岡本・吉岡>

<7月25日>6150mまでルート工作(6200m)。<山本・溝手・横山>

<7月26日>C2予定地まで工作(6200m)。<名越・溝手・横山>

<7月27日>インド隊南稜のコルに到達、C2(6200m)。日印双方ともC3は作らずC2から一気に頂上までルートを延ばすことを確認。

<7月29日>午前11時頃、日本ルートとインドルートの間のルンゼ上部が大崩壊し、全山をゆるがす岩雪崩に肝を冷やす。
3日間のアイスカッティングでやっとC2建設。

<7月31日>C2より上部のルート工作に入る。氷壁のボッカに喘ぐ。日没と同時に上部雪田へ到達(6550m)<名越・岡本>
8月1日より悪天の周期に入る。

<8月2日>ルートを分けたため我々の手持ちロープは1200mしかなく(壁の標高差は1400m)、下部のフィクスを
外して上部雪田のルート工作をする。雪田より上部岩壁鼻の頭まで(6700m)。<溝手・山本>

<8月5日>すでにフィクスロープは無いので、アルパインスタイルでルートを伸ばす。猛吹雪の中岡本トップで上部岩壁帯を突破し、14時頂上雪壁に出る(6870m)。岡本、横山はこの南壁を完登したことで十分満足しており、それにこの日インド隊のアタック予定日であったため、初登頂は彼らにまかせて我々はC1まで下ることにする。しかしインド隊はこの日登頂できなかった。

<8月6日>山本・溝手も壁を完登するべく、2時にC2を出発。フィクス終了点からは彼らもアルパインで登攀。昨日の終了点に12時着。(吹雪)
フカム・シン隊長は8月8日にBCを撤収すると言っているので、嫌がる二人をなだめすかして頂上まで行かせる。90mロープ2ピッチで頂上稜線に到達。ガスで全く視界が無く、雪庇を踏み抜いたことで頂上稜線であることを確認、一応登頂ということにする。(7016m)
山本-14時10分、溝手-14時30分着。
C1まで高所?ポーターを使って登山に専念できたからか、登山を開始して17日間で頂上に立つことができた。8日にはBC撤収と決まっており、二次アタックは無理なので二人にフィクスを回収させるも手際が悪く、鼻の下(6600m)からC2までが回収できず。C2帰着21時半。

<8月7日>C2の二人はフィクスを回収に行くというが(明日はBC撤収なので)中止させ、先にC2の荷を滑り下ろさせて、次いでC2より下のフィクスを総て回収させる。

<8月8日>日本隊はC1をたたみ、ポーターを使って全荷をBCに下ろす。
結局インド隊はこの日17時ちょうど登攀隊員7人全員が南面より登頂。

<8月9日>インド隊下山。全員無事ABC集結。

<8月12日>デリーよりヘリコプターで、ITBP長官アリヤ氏とIMF(インド登山局)総裁コーリー氏BCを慰問。13時、BC発~スキャンポチェ着。

<8月13日>スキャンポチェ発~チャングルン村着。夜、ヌブラ谷住民総出の大パーティー。

<8月14日>チャングルン~レー。ITBP基地にてレセプション。(副長官出席)

<8月20日>ITBPにてセレモニー。日本大使館より神長公使出席、スピーチ。

<8月23日>神長公使宅にてランチ。

<8月24日>登山隊解散4名帰国。