BarnajⅡ キシュトワール・ヒマラヤ登山隊1977
隊 長 久保 信義
副隊長 宮川 勝博
隊 員 山本 登一
名越 實
亀井 且博
木佐 英一
田中 俊夫
安藤 和己
リエゾンオフィサー Momad Aslam Laigloo
<バルナージを取り巻く歴史と概念>
グレートヒマラヤはネパールから西に延びガルワール、ヒマチャルプラディッシュ、キシュトワールを経てヌン・クン山塊を通り、カラコルムへと続いている。ヌン・クンの西ナンガパルバートの南には、遠くムガールの時代より「地上の楽園」といわれたカシミール盆地が開け、その中心に「東洋のベニス」と呼ばれ、湖と避暑で有名なスリナガールがある。キシュトワール盆地の南東に北側をクリシュナー河、東側をドダ河、西側をマラウ河、南側をチュナブ河に囲まれた北緯33度~34度、東経75度~77度の間に多数のピークが集まったグレートヒマラヤの一部である大きな山塊があり、それがキシュトワールヒマラヤと呼ばれている。その最高峰はシックルムーン(6520m)で周辺にブラマーⅠ、Ⅱ、アルジェナ、アギャソル、バルナージ、シバ、ハッタル等の竣峰が取り巻いている。行政的にはジャム&カシミール州に属している。この地は古くよりスリナガールからザンスカールへ通じる途中にある山塊として意識されていたが1946年ウィーン生まれのフリッツ・コブルら3名に率いられた英国、オーストリア隊が本格的に調査してから一躍脚光を浴びるようになった。それ以後、特に1965年以降は毎年登山隊を迎えるようになった。しかし主要な既登峰といえば英国のクリス・ボニントンらによるブラマーⅠ峰やインド隊によるシックルムーンぐらいなもので、他のほとんどのピークがその困難さ故か手つかずの未踏峰として残されている。
バルナージ峰は1976年、日本の登山用具研究クラブ隊が初めて挑戦したが失敗に終わり、翌年その後を受けて我々の挑戦となった。あのコルブをして圧倒的な美しさといわしめたバルナージ山群はバルナージナラ(谷)沿いに前衛の針峰群を従え、最奥の主峰はⅠ峰とⅡ峰とに分かれそれぞれ6100mと6290mの標高がある。標高こそ低いがそこには知り尽くされた山とは比べものにならないもうひとつ人の心を引きつける何かを持っているようである。
<計画・立案・出発>
1976年2月ヒマラヤを志向する8名が集まり、ガルワール・ヒマラヤのチャウカンバⅣ峰(6854m)、
ほかテレイサガール、ティルスリ西峰の2ピークが希望の山として計画された。その年の5月21日にImF(インド登山財団)へ申請書を送り、隊員たちはそれぞれ近郊の岩場や日本アルプス等へとトレーニングを進めていった。しかし、9月1日ImFより希望していた3つの山がすべてインナーライン上にある理由に断りの返事が来たのであった。そこで我々は会員の名越をインドに送り、ImFとの交渉と山の偵察をさせることを決定し同時に他の山を捜し申請する仕事を始めた。9月23日、次の目標の山を決める。ジャム&カシミール州のクン峰(7077m)を第一希望とし、他に6つのピークを同時に申請する。この中にバルナージ峰が入っていた。10月8日、再度ImFへ申請書を送る。11月25日、名越がインドへ向け交渉と偵察のため出発。12月6日、バルナージⅠ峰許可との連絡が入る。
3月4日、無税通関のための書類をImFに送付し、4月15日梱包作業を終了し隊荷を送り出す。4月24日現地交渉と通関、買い出しのため先発隊3名が出発する。5月2日、残り5名がニューデリーへ到着。事を起こして約2年やっと全員がインドに集合することができた。買い物他、諸交渉をデリーにて済ませ5月5日宮川、亀井を残し他はバスをチャーターして一路キシュトワールへと向かう。亀井はリエゾンオフィサーを迎えにスリナガールへ飛び、宮川はトランシーバーの許可を得るためにデリーに残る。
5月12日、全員がキシュトワールに集合する。
5月13日、ポニー20頭に積みきれぬ荷を全員が山のように背負い、憧れ?のキャラバンが始まる。ガハールから山道になり、雨のリドラリ、シャシー、アトリと過ぎ登山口ハンゴーには5月17日着。ポニーを解雇し、5月19日いよいよバルナージ谷に入る。降雪やポーター不足に悩ませられたが5月23日ついに全員BC(4000m)入りをする。
<登山活動>
BCよりバルナージ氷河を数Km北上し、Ⅱ峰の西稜沿いに雪面を登る。さらに緩い雪面をクレパスに気をつけながら行くと広大なプラトーに出る。Ⅱ峰の西稜と南稜に囲まれた馬蹄型の雪原である。
5月26日、プラトー中央にC1を設営(4700m)。C1よりプラトーを詰め、南稜沿いに左上し階段状におちるハンギンググレイシャーとの間のルンゼにルートをとる。このルンゼの入り口を我々は”氷の門”と名づける。
6月2日、そのハンギンググレイシャーの上に2張りのテントを設け、これをC2(5250m)とする。C2より上部は雪面を200m登り、南稜に出るルートをとることにする。BCでの我々の懸念はいかにして南稜に抜けるかということにあったが、思いのほか簡単にルートは見つかった。
6月4日、待望の南稜におどりでる。ここより我々は初めてバルナージの東面を見ることができた。なんと南稜末端のハグシュ・ラ(峠)を隔てた向こうには岩の盾とでもいおうか、全面岩壁のとりつく島もない恐怖の六千メートル峰ハグシュ(6330m)が黒い光を放っていた。さらに、その後ろにもハッタル等の竣峰が連なり、遠くザンスカールの山へと続いている。目を西に転じれば、まさに鎌のようなシックルムーンが不気味にそびえ左へプラマーⅠ、Ⅱ(1976年、札幌山岳会が登頂)、アルジュナとため息が出るような竣峰が連なっている。南稜に抜け出るところは門柱のような感じで岩がたっているので我々はここを”バルナージの門”と名づける。この南稜上がルートの核心部分で悪場が連続して現れ、最難関部の垂壁には20mのワイヤ梯子をかけた。
6月11日、C3(5750m)を設営。この頃よりリエゾンオフィサーが「我々の許可峰はⅠ峰であってⅡ峰には登ることができない」と言い始める。だがⅠ峰へはⅡ峰を越えないと行けないし、Ⅰ峰はまるで烏帽子のような岩の塊でとても全員が登れるとは思えない。さらに、リエゾンオフィサーは「秋には日本隊が来ることになっている」という。それを真にうけた我々はⅡ峰(主峰)への登頂をあきらめざるを得なかった。日本隊云々はリエゾンオフィサーの作り話だったようだが、あの時点では我々としてはあとから来る同胞の夢を踏みにじるようなことはできなかった。事実上、このC3がアタックキャンプとなり、6月13・14日我々はⅡ峰手前の中央峰(6170m)へ全員(リエゾンオフィサーを含めて)が登頂することができた。
<後書き>
結局我々は当初の目的だあった初登頂はできず、Ⅱ峰手前のピークで登山活動に終止符をうった。だが全員登頂とポーターは使わず自分たちの力のみで荷をあげ、ルートを開くという理想はほとんど達成された。もちろん回収に失敗した一本のフィックスロープを除いてすべてのものをBCまで持ち帰った。
この地域は今後ますます多くの登山家を引きつける場所になると思う。少人数でアルパインスタイルでの登山が主流を占めると思われる。
今回の我々の登山はオーソドックスなポーラーシステムをとったが、これは我々が意図して我々の力量にあった方法を選んだのである。この地域におけるアルパインスタイル登山の成否は最終的には登る人間の登山技術の問題になると思うが、やり方や考え方によっては少ない人数、少ない費用で十分に楽しい登山ができるエリアである。
記:宮川 勝博