45年ぶりの石鎚山


久保 京司

 冬の石鎚。二十歳代、森安(旧会員)と二人であった。西之川からの予定がスキーヤーの乗り込むバスに乗り違えて笹ヶ峰方面に連れて行かれ、地図を見ながら儘よ、と林道口で降ろしてもらい菖蒲峠(花の名のついた峠と記憶)から長い長い尾根を辿り、無人の瓶が森ヒュッテに着いたのは真夜中であった。
 今回、「恐羅漢ばっかり」の私を大前は快く受け入れてくれ、そのためか保井野―堂ヶ森からの計画も変更して、屈強な吉村、西村、多賀谷のガイド達と、例年以上の積雪を快適に登ってくることが出来た。
 1月20日、吉村車に迎えられ竹原で西村夫妻車と合流。22時西之川駐車場に到着するやいなや、毎度のことか何の躊躇も無く車の横にテントを張りだす。何かの大きい軒下、トイレ水完備で申し分無いが旅館の前で私は気が引ける。宴会が始まるともう我城である。だが頼りの大前がしもからの「シビリ」で不調。(下山してから皆腹具合がおかしかったの事)
 明けて21日、スキー場へのロープウェイで成就へ。前はここに降りてきたのだが小雪の舞う中、寒々と鳥居と社があるだけで人気はまったく無かった。白石旅館で親切にもお茶を振舞われ、話に聞くとその頃か一度焼失したことがあったそうである。石鎚山の正面を窓越しに据えた神殿に参拝して出発する。
 晴天ではないが風も無く上々の天候である。昨夜の西村情報では近年にない大雪で腰までのラッセルとの事、ゆっくりの出発即ち「ラッセル泥棒」が良かろう、などと一番若いのがずるい事を言っていたが賛成。先行トレースで踏み固められ途中からのアイゼンが歩きやすかった。おおむね1m程度の積雪では大泥棒ほどではなかったろう。
霧氷か樹氷(その区別は辞典を見ても難解だ)を纏った森林の間に々見えていた石鎚が遂に、白く凍結した北壁の全貌を現し、頂上に向かって、鳥居と鎖場の小屋が、人々が続き、正面に遮る物は何も無い。此処から50m降りた「夜明け峠」の看板前にテントを張って13:20頂上に向かう。
 所々のトラバースもまあ安定している。二の鎖の小屋で思い出すのは、がっちりした木造小屋が岩場に張り付いていて、一人の小屋番と瓶の底からどぶろくを汲んで遅くまで話し込んだ事、頂上へは雪が少なく露出した鎖を伝ったことである。今はさっぱり見えず掘り出してまで登るものはなく、夏来て遊ぶが良かろう、か?、巻き道へ。ところが度々来る西村ガイドも知らないクリーム色のペンキも新しい鉄の階段が半分露出している。ここら当たりは氷のトラバースを予想したそうだが、御蔭でザイルを出すこともなく難無く頂上14:45。
 先ず目に付いたのが鎖が巻きつけられた異様な岩塊、一つ一つに寄進者の名前が掘り込まれている。それを取り込んで金ピカの金具が目立つ白木の立派な神社が建てられている。このあたりの記憶はさっぱり無いが、岩峰の上は古い祠が鎮座していたのではなかろうか。すぐ前にニョキッと立つ天狗岳、吸い込まれそうな北壁、東方彼方に一際白い瓶が森。そこからジャンダルムのような子持ち権現、土小屋と起伏の少ない尾根が続く。
 そこにまた記憶を辿ると、この尾根は雪が少なく藪漕ぎもあった、土小屋あたりだろうか、里と錯覚しそうな庭石のある立派な茅葺屋敷が出現して広い庭をよこぎったものである。「土小屋」の由来はそれだっのだろうか、誰かしりませんか?。
 西方には西の冠、二の森、堂が森と続く。雪がべっとりで若し保井野からだったら大変だっただろう。空は出ていないが見晴らしは良く、地平線近く帯状に映えるオレンジ色の雲の下は太平洋らしく見える。テント15:50帰着。
 テントの中では皆キレイ好きであった。吉村のホルモンキムチ鍋、旨い。飲み喰いだけでなく何事にも手抜きを許さないシビアな一面を知る。個人装備だけの小生が精一杯気負ってのBeerも飲んべー揃いには焼け石に水、焼酎バーボンで盛り上がる。暑いテントから這い出ると控えめに輝く今治の夜景、ほの白い石鎚の山影に露出を固定して待つ西村カメラマンと酔い醒ましの微風をうける。嗚呼、これなくてなにがおのれの山行きかな。
 翌日はロープウェイに乗るのではなく八丁から西の川へ下る。刀掛までの3時間は吉村大前の快調なわっぱに牽引され、アイスフオールあり、落ちそうな木の橋などで楽しみながらの余裕であった。ところが谷沿いの下降で雪が無くなる頃から急に膝が痛くなりペースダウン、大前、多賀谷に付き添われて終点の廃屋へ着くまでの1時間は長かった。これは小学校のとき柿の木から落ちて2、3ヶ月休校したときの後遺症である。と言い訳をしておく。
 私の山行きは30歳ごろまでが最盛期?であったから、昨年5月の剣岳もそうだが、いまのところ約「45年ぶり」である。今後も皆さんの元気を貰って50年、55年ぶりと思い出を辿りたいものです。

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