冬合宿 西穂高から槍ヶ岳縦走  (リーダー:中島)


中島 聡

12月29日夜~1月4日 参加者:中島(リーダー)、三谷、神庭

山深い奥飛騨温泉郷の中でも、新穂高温泉は再深部に位置する。北アルプスへの登山基地であるため、夏場は多くの人や車が行き来するが、冬場にはめっきり人影も少ない。温泉旅館と言うより山小屋に近い中崎山荘は、新穂高のバスターミナルから蒲田川を渡った所にある。

1月3日の夕刻、中崎山荘の女将は宿泊客の食事の準備に取りかかったところであった。正月で宿泊客が多いのも今夜まで、などと思いながら手を動かしていたところ、玄関から声がした気配があった。予約の客はすべて到着済みだし、誰かといぶかりながらも「はい」と返事をして玄関に出ると、登山の格好をした若い男が立っていた。「すいません、お風呂は入れますか。」男は尋ねた。「はい、どうぞ、500円です。」と、答えると、男は安堵したような笑みを見せ、「じゃあ、準備してすぐ来ます。」と出て行った。 笑ったときの男の歯が、異様に白く見えたことが印象的であった。ふと時計を見ると4時45分であった。「心の中にいる友達三人グループの一人に 右手まかせて もう一人に 左手まかせて もう一人に 耳かたむけて」~ゆらゆら帝国「3×3×3」~

「ラッセルとは思わなかったな。」12月30日の夕方、西穂高の独標でテン場を作りながら中島は思った。ロープウェーも山小屋も営業しているこの西穂高で、初日からラッセルを強いられるとは計算違いであった。予定では、この日は西穂高の山頂も越えて前進するはずだったのだが、昨日までの雪でラッセルの連続となりペースはあがらなかった。他のパーティが、彼ら三人に追い付くと同時に立ち止まるのがいまいましかった。明日、西穂高を越えてからの悪場を考えると不安はあったが、先月偵察に来て、本番までに三人で対策を協議してきたのは心強かった。中島は広島山岳会に入会して5年になるが、新人合宿以降は今回のメンバーである三谷・神庭のどちらかと必ず一緒に合宿をやってきていた。それだけに、お互いの技術・体力・精神力は知り尽くしており、呼吸も手に取るようにわかる。そのうえで、今回の合宿は三人が全力を出さないと、成功できないと考え続けていた。逆に言えば、三人が全力を出せば成功できるだろうと。そして、冬の合宿は常に天候が鍵であった。荒れても二日間までならごまかしが利く。しかし、三日以上荒れると日程的にも敗退は必至であろう。幸いにも天気図では、大きく崩れる徴候はなかった。あとは二人を信じるだけだ、そう思いながら中島は山での最初の夜を眠りに落ちた。

31日の朝は慌ただしく始まった。5時起床予定が30分寝過ごした。急いでラーメンをすすっているうちに、小屋泊の人々が日の出を見るために上がってくる。ひとり神庭だけが、人々が日の出を待つ視線の先へとトイレに出かけた。そういう神庭のタフさがなんとなく中島には頼もしかった。西穂高から先の稜線は予想どおり悪かった。山頂から目と鼻の先の雪壁で最初の懸垂を余儀なくされて、以降もアップダウンの度に、危険なクライムダウンか不安定な懸垂を繰り返した。彼らの計画書では今日の到着予定地は北穂高になっている。この先、ジャンダルムを越え、奥穂を越え、涸沢岳を下り、登りきったところだ。にもかかわらず、昼にもなって、まだ昨日の到着予定地である天狗岳の手前に彼らはいた。予定は到底無理だが、なんとか奥穂の小屋までは行けないものか。テン場だと日没1時間前から設営作業を開始しなければいけないが、今日のような好天の場合、冬期小屋なら日没1時間後に逃げ込むことも可能だ。2時間の利があれば小屋に届くだろう、そう思って中島は残りの二人に発破をかけた。しかし、数時間後に結果は裏目に出た。午後3時を境に三谷が立ち止まり始めたのだ。天狗への登りの途中、日没を迎えた。わずかな残照の中、飛騨側への必至の懸垂を続ける。この先に見えるコルに適地がなければ、コブ尾根の頭まで登らなければならないだろう。このペースなら2時間は見なければならない。すがるような思いでたどり着いたコルには、素晴らしいテン場適地が広がっていた。すぐに追い付いた神庭とともに、頭上高く上った月に感謝の言葉が自然とあふれた。 

元旦、澄みきった空のむこう、八ヶ岳から日は昇った。今日も好天が約束されているようだ。出発から1時間ほどして、ジャンダルムの基部に彼らが至ると、テントが一張りあった。出てきたパーティに問うと、ジャンダルムへの尾根を上がってきたと言う。後日中島が調べたところでは、飛騨尾根と思われた。11月の偵察時には信州側を捲けたジャンだが、今回は直登するしかない。雪壁を登り、懸垂とクライムダウンで楽に向こうへ降り立った。しかし、ロバの耳の悪さは予想以上だった。偵察時に、横山さんがマークしてくれた支点を目指してゆっくりとクライムダウンをする。半分腐った支点に神庭がテープでバックアップをとり懸垂。降り立った地点からトラバースし、鎖を支点にさらに懸垂を2回。こういう場所での懸垂には、神庭以上の適任者はいないだろうと、中島は常々考えている。彼は、所与の条件の中で、最も安全かつ最速の方法を見い出す能力に長けているのだ。

奥穂の山頂で、彼らは吊り尾根からの二人組に出会った。前穂の北尾根から来た二人は、途中、滝谷で登攀をしながら槍に行き、北鎌を下る予定だと、言葉少なに語った。その計画にふさわしく、彼らは飛ぶようにして視界から遠ざかって行った。結局この日は、涸沢岳を3回の懸垂で下りきったところで幕営となった。設営中、三谷がふとつぶやいた。「生きて帰りたいな。」 「当然だし、槍にもちゃんと行きますから。」そう答えた中島も、胸中には不安を抱えていた。目の前にそびえる北穂高岳、本当は昨日のテン場予定地がその山頂なのだ。すでに1日半の遅れがある。これ以上遅れると、計画の完遂は不可能となる。明日はなんとしても南岳、そう誓い合って3人は眠りについた。

翌日は朝から弱い吹雪であったが、行動をためらうほどではない。ルートファインディングが上手いのは、三谷である。稜線を右に左に捲きながら、いつの間にか三人は北穂の小屋へたどり着いた。昨日出会った二人組のものであろう、冬期小屋の中には小さなテントが無人のまま張ってあった。主がいないところを見ると、計画通り滝谷の登攀に出かけたのだ。それにしても二人組の装備のわずかなこと。シュラフ一つ取っても、まるで夏用だ。二人組のことを思うと、彼らには自分たちの山行が、まるでささいなことのように思えた。しかし、現実には自分たちの全力を出さねば解決できない課題がそこにある。北穂からの大キレット下りは予想通り、彼らを苦しめた。微妙なクライムダウン、崩れそうな小ピナクルに捨て縄をかけての懸垂、前を向いて歩ける区間などわずかしかない。過ぎてゆく時間、飛騨側から吹き付ける風と雪。最低コルが近づく頃には、一つ一つの動作より、集中力を持続させることに神経を使うようになっていった。ようやく最低コルに降り立った時には、すでに日も傾き、要塞のような形状の南岳をその日中にやるなど、論外となった。しかし、数日間続いた悪場はこれで終わったのだ。神経をすり減らし過ぎて、無表情にはなっていたが、三人は心の底から安堵した。しかし、下降中、登攀を終えて小屋を撤収した二人組が、早くも長谷川ピークで三人を追い抜いて駆け下って行ったことは、彼らに衝撃を与えた。同じ物差しで測れない、そう、言ってみれば次元の差が彼らと自分たちの間にあることが感じられたのである。

1月3日、昨晩聞いていた予報より天気は良さそうであった。毎日、悪いところでは常にルートを拓いてきた神庭も、もう大丈夫と思っているのであろう、今日は最後尾を景色を見ながら上がってくる。三谷もハイペースで南岳を登る。南岳の小屋まで上がると、槍の穂が大きくそびえているのが目に入ってくる。遠く、西穂から見たときの何倍のサイズになっただろう。昨日頃から、中島の頭には好きな曲のフレーズが流れ続けていた。もう長いことメンバーが固定している3ピースバンド、ゆらゆら帝国が自分たちのことを歌った曲だ。そのバンドは、その三人以外では決して成り立たない世界を築いている。自分たちもそうなんだろう。この三人だからこそ、何とかここまで来れたし、ともに持てる力を十分に出し尽くしてここまで来た。何も言わずとも役割分担が決まり、弱いところはおのずとカバーし合うことができるメンバー。三谷・神庭とこの合宿をやれて本当に良かったと、中島は噛み締めるように思った。そして、ここ数日の苦難を思い返しているうちに、槍の肩に着いていた。その後三人は槍ヶ岳の山頂で1枚の写真に収まった。もちろん、他に登山者などいないため、タイマー撮影をしたのだ。槍を登り終えてからの行程は、驚くほど早かった。西鎌から中崎尾根経由で下る予定であったが、下り始めてすぐに雪の安定しているのを見て取った神庭が、「ここ下って良い?」と飛騨沢を指した。スリップの危険性はあるが、雪崩の可能性は低いと考えた中島が「良いよ」と返す。真っ直ぐ下りてしまえば、槍平までは1時間半もかからなかった。中島が三谷に声をかけた。「あと3時間歩けるよね?」「うん」と三谷も答える。この瞬間、彼らの合宿は当初の予定通り、1月3日下山が確定したのだった。 新穂高温泉に着く少し手前、中島の残りの心配は、この夕刻に中崎山荘の風呂が使えるかどうかだけとなっていた。「神庭君、僕と三ちゃんさんは下山届を出してるから、その間に中崎山荘で、風呂入れるかどうか聞いてきてよ。」蒲田川にかかる橋を渡って行く神庭の背を見ながら、中島の胸には言いようのない満足感と、二人に対する感謝の念があふれていた。 (文中敬称略)

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